初めに

ここでは、私が2014年5月頃から約4~5か月間、勉強や内省を通して学び、自分なりに構築した信念を紹介します。概念上の哲学はほぼ完成しており、後は実践するだけなんですが、以前とは異なって文章を書く時間をあまり取れなくなっているので、細かいことまでは書けないかもしれません。

また、このセクションの内容は、多数の方を対象にして書かれていない事に留意してください。志士、武士、戦士、豪傑、勇者、超人などの高く、同時に深い志を持った、少数のアウトサイダーを念頭にして書いています。中途半端な志と浅薄な知識で本記事を読み、実践されると、おそらくご自身のためにも、そして社会のためにもならないと思いますので、くれぐれもご注意願います。

真理を求道していると、必ず綺麗ごとでは済まない部分が出てきます。善のみならず悪も場合によっては受け入れる、という自分自身が傷つきかねないような、諸刃の剣を自在に扱えるようにならなければなりません。ですから初心者はまず、悪を遠ざけ善とは何かを学ぶことから始めるのが良いと思います。物事には順序があり、偽善だからと言って、頭ごなしに否定する必要はないです。

己を見失わずに善悪の概念を見つめ直し、そこから導き出される真理を受け入れるためには、強靭な意志力が必要です。そのような力が身に付くまでは、偽善でも心や精神を養うことに意識を集中した方が良いでしょう。信念もない状態で聞きかじりの知識のみを振り回す行為は、百害あって一利もありませんので、十分注意する必要があります。

私の哲学は、多分に陽明学やニーチェの思想と似ている部分があり、(そっくりそのまま真似ているわけではありませんが)彼らの影響を受けている事は確かです。

陽明学は江戸時代に日本に初めて紹介されて以来、近代までずっと権力者やインテリ達に禁忌の学と見做され、一部の人達には「謀反の学問」と呼ばれてきました。その所為かはわかりませんが、偉人の生涯を描く著者の中には、陽明学が与えた影響を一言で済ませたり、中には全く書籍の中で触れない人もいるくらいです。しかし一方で「光の哲学」と呼ばれ、その教えに啓発されて多くの歴史的偉人が輩出されてきたという事実を忘れてはなりません。

また、哲学者ニーチェの書物を読んだ人の中には、彼の超人思想や力の思想に対して潜在的な危険性を感じた人もいるでしょう。しかし、少しでも危険な考えは人々から遠ざけられなければいけないのでしょうか?

私はそう思いません。物事を深く追求するためには、陰と陽のように、相反する対極の概念を妥協なく究める必要があります。薬を学ぶ人は毒を知らねばならないように、善を学ぶのであれば悪を知らねばなりません。したがって、善ばかりを肯定する人は、どこかに必ず矛盾を生じています。ここらへんの考え方の機微は、陰陽の理を参考にしています。

王陽明の「良知」哲学とは、何が正しくて悪いのかを、己を省みることで判断する知恵の事です。そこには、善悪を固定的に判断する基準や指標はありません。また、力を肯定するニーチェの思想も、個人的で自力的、かつ既定の善悪に捉われないという点で、陽明学と共通しています。

現代社会で道徳教育が形骸化し、世の中に偽善や欺瞞が蔓延するのも、安易な「君子危うきに近寄らず」の考えによる、臆病な大衆社会の弊害に他なりません。

真の善を学ぶ人間は、真の悪を知ることが必要不可欠です。そう考えると、この世はまさしく陰陽で成り立っていると言っても過言ではないでしょう。闇が存在するからこそ、光の尊さを認識できるんですから、闇を否定してしまえば光もまた消えてしまいます。皮肉なことに、悪を遠ざけようとする行為が逆に、善という希望の光まで隠す結果になっているという事実に、一刻も早く気付く必要があります。

戦人の哲学

それでは、私の信念についてまずは簡単に概要を紹介したいと思います。私の信念を一言で表現すると「戦人(いくさびと)の哲学」と言えるかもしれません。他にも「己を支配する力の哲学」「全力で生きる、笑い死にの哲学」「自他合力の哲学」「総合家としての百姓哲学」「鎌倉武士道」など、見る視点によっていろいろな呼称を付けることが可能です。

己を深く省察していくにつれて、(弱いくせに)私は戦士としての本性が自分に内在するという確信に至りました。平和な現代の日本社会において、この事実を認めることは相当の勇気が必要であり、幼少の頃から何故に私が悩まなければならなかったのか、ようやく得心がいきました。金の力が支配する世の中で、私の生きる場所が見つけづらいのも当然です。

ここでのポイントは、自分が「戦士」であるという点で、決して「兵士」ではないということです。あくまで自分の意志で人に従ったり決断するんですから、誰かの命令を無条件で受け入れることはありえません。

私の生きる原動力を最も端的に表した言葉は、『力への意志』だと思います。これは元々ニーチェの言葉ですが、その表現が一番適当だと判断したので拝借しました。そして、その力への意志により「己を支配」するわけです。しかし、ニーチェと私とでは信念的に異なる部分がありますので、それは機会があれば後述したいと思います。

その「力への意志」を土台として、最終的には「自他合力」であり「無意志の力」たる『天人合一』を体得します。「天人合一」とは、陽明学などの儒教で見受けられる単語ですが、こちらも表現を拝借しただけで、本来とはおそらく異なった意味で使用しています。ちなみに「自他合力」や「無意志の力」は私の造語です。

強さ(力)は悪と相性が良く、逆に弱さは善と相性が良いように見えますが、決して強さを尊び、弱さを蔑んでいるわけではないことは理解していただきたいと思います。真理の求道者は、強さと弱さの両方が兼ね備わっていなければなりません。

そうやってこそ、王陽明の「善もなく悪もない心本来のあり方」つまり『狂者』の境地に到り、またニーチェの『善悪の彼岸』に到れると私は考えています。

簡単に言えば、善を究めるのであれば、悪も究めなければいけないということです。これは真理の求道者として避けては通れません。

善悪の定義について

このセクションでは、度々「善」や「悪」の単語が登場しますが、前後の文脈によって意味合いが異なります。「真善」や「真悪」または「純善」や「純悪」など、肯定的に使用しているケースもあれば、「偽善」や「偽悪」または「俗善」や「俗悪」など、否定的に使用しているケースもあります。偽善や俗善でさえも、私にとっては邪悪、卑劣、臆病、不純と同義であり、受け入れることはできません。

比喩的に表現すると、前者は「透明で純粋な岩清水」、そして後者は「濁って不透明な下水」をイメージしていただければ何となく分かりやすいでしょう。綺麗な水を好むのも、逆に汚い水を嫌うのも、お腹を壊さないための当然の反応だと思います。

私があるところのものになる

前述しましたが、私の本性は力による「支配」にあります。しかし、別に大したことを言っているわけではなく、生命を持った生き物であれば大なり小なり持っている本能的衝動です。重要な事は、その衝動を無理に抑えつけたり、否定してはならない、という事であり、現在の社会では無理な抑圧による弊害が至る所で見受けられます。

ある意味、今までの私の学問や求道生活も、己を知るため、そしてそこで知り得た力を以て妥協なく己を支配し、「私があるところのものになる」ための戦いと言えたかもしれません。

以前、記事の中で自分をまだ「偽物」だと表現したことがありますが、それは綺麗ごとばかり言っている偽善者だという自覚があったからで、今は自信を持って「本物」の求道者だと断言できます。それだけの強靭な意志力を持っていますし、己の中に存在する狂暴な何者かも、完全に支配下に置いています。もはや以前のように自分を見失うこともないでしょう。

ここまで読めば、真理の求道とはそんなに簡単なものではないことがわかると思います。理屈は単純なので、頭では容易に理解できるかもしれませんが、真理を体得するまでに相当の時間がかかるはずです。学問や研究を生業としている人には書けないかもしれない、道徳的に際どい内容でさえも、今の私は正しいと信じている限りは扱うようにします。

ニーチェは、自分の「超人」思想を架空の人物(ツァラトゥストラ)を登場させることで表現しました。多分、本人の口から直接語ると、いろいろ具合が悪かったからだと思います。しかし、私はあらゆる書籍を引用しつつも、己で悟った真理については、可能な限り自分の言葉で語ります。専門のライターや学者じゃないという利点を、逆に最大限に生かせればと思います。

今回の内省による成長に伴い、私の号(ニックネーム)は「潜龍」から「蒼龍」に変更し、道楽道サイトのバージョンを「ふたば」から「よつば」に変更することにしました。蒼龍の詳しい意味については後述します。

古い価値の破壊者であり、新しい価値の創造者

今までは個人に焦点を当てて書いてきましたが、この段落ではその信念や哲学がどのように社会に影響を与えるかについて簡単に書いておきます。

静かに生活したい私が望んでいるわけではありませんが、結果的に本サイトで書いている事は、古くなった常識を破壊し、同時に新しい価値を創造しようとしている行為に他なりません。

修養のために己自身と戦うのは大いに結構ですけれど、破壊や創造のために他者とまで戦うことになるのは、可能であれば避けたいものです。しかし、私の意志がどうであれ、世の中の歪みが大きくなり、絆創膏を貼っただけでは修復不可能な段階に到れば、いずれはお互いが争う流れになっていくでしょう。

後は程度の問題で、世界の流れを少しでもましな方向へ変えるだけの、強大なベクトル的エネルギーを持った人がどこかに存在すれば、(良いか悪いかは別として)人々の小さな思惑に翻弄されることなく、己の手で未来を掴むことも可能かもしれません。

なぜ、自分の成長過程を記録にするのか?

内村鑑三の自伝『我はいかにしてキリスト者になりしか?』やニーチェの自伝『この人を見よ』が書かれたのと同じ理由で、私は個人的経験や信念を自分のサイトにいろいろ書いてきました。

なぜならば、結果ではなく過程を重視するからです。多くの人は成功や失敗という結果しか見ませんし、その結果でしか評価しません。「終わりよければ全て良し」という考え方があるからだと思います。しかし、今の境地に至ったプロセスや葛藤も書いて残しておく必要があると考えます。

知識ばかり豊富で、中身のない評論家ばかり世の中に増えてしまうのは、結果を重視する風潮があるからだと私は思っています。例えば、過去の偉人を論じる書物は数多く出回っていますが、著者自身が彼ら偉人達と同じ土俵に立つという大きな志を持ち、体を張って全力で生きている人はどれだけいるのでしょうか?

これからの日本には、数多くの本物の勇者が必要となります。人間が克己し、超人への道筋を示す『橋渡し』が私にできればと考えています。

しかし、元々弱い自分は残念ながら、真の豪傑にはなれません。生来素質を持った人だからこそ、溢れるほどのエネルギーを幼少の頃から兼ね備え、若い時分から尋常ならざる行動を起こすことが可能です。彼等は時に、その事が原因で問題を起こして犯罪者になったり、早死にしたりするわけですが、それ程の強力な人物でなければ、世の中を突き動かすことなど到底叶いません。

私の場合、限られたエネルギーをすべて自分自身に向けています。そうやって威武を高め続けることが、己にとっての修養となるからです。真の英雄を大きな盃に例えれば、私は一口しか酒が入らないような、小さなおちょこと言えます。しかし、器の大きさは異なっても、杯の材質は同じ金剛石(ダイヤモンド)で造られており、誰にも壊すことのできない硬度と、不純物の混じらない透明度を保っていると自負しています。

内省による自己修養の歩み

サイトを創設してからに限定すると、自覚できる程の成長を自らに感じたのは、これで3度目となります。したがって、以前に書かれた記事の内容と現在の私の考えとは、若干異なる部分が出てくるのはしょうがありません。しかし、根本にある人生哲学が変わったわけではなく、より洗練され、完成に近づいたということをご理解ください。

2014年初頭、『学問の求道者用』ページに書いた内容も、当時の私は真剣に書いたつもりですが、今の私から見るとまだ未熟で迷いがあり、信念の試行錯誤の跡が見られます。

当時は陽明の良知の学を重視して学んでいましたが、何かが自分にとって物足りず、しばらく懊悩していました。後になって考えてみると、決して王陽明本人や陽明学に至らぬ部分があったわけではなく、彼の生きた時代背景や軍司令としての社会的地位を考慮すると、己の信念をそのまま大っぴらに出来なかった裏の事情や苦悩が何となく推察できます。私が見る限り、王陽明は東洋のニーチェです。

成長過程のプロセスを示す上でも、過去の記事は有用かもしれませんので、そのまま修正せずに残しておこうと思います。

本当に大切なもの

最後に、(本人にとっての)真理に到れば、それは何にも勝る至高の宝物となります。「金銀財宝を好きなだけ与えるから、お前の真理を諦めて忘れろ」と誰かに諭されても、もはや惑わされることもないはずです。それだけの価値が真理にはあります。多数の人にとって恐ろしいと感じるニーチェの「永遠回帰」の思想でさえも、快く受け入れられるだけの精神的強さも身に付いていることでしょう。


あなたがたが絶望におちいっていること、そこには多大の敬意を払うべきものがある。なぜなら、あなたがたはあきらめることを学ばなかったのだから。小さな知恵を学ばなかったのだから。

というのは、今日、主となり支配者となっているのは、小さな人間たちであり、かれらはみなあきらめと謙遜と抜目なさと勤勉と顧慮その他、限りなくつづく小さな美徳を説くのだ。

(中略)

あなたがた、「ましな人間」たちよ、小さな美徳を克服せよ。ちっぽけな知恵、砂粒のような配慮、蟻のうごめき、あわれむべき快適、「最大多数の幸福」を!あきらめるよりも、むしろ絶望せよ。そしてまことに、わたしがあなたがたを愛するのは、あなたがた「ましな人間」たちが、いまの世に生きるすべを知らないからだ!ということは、つまりあなたがたこそ―――最もよく生きているからだ!

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より



「模範的な学生や社会人である前に、まずは私があるところのものとなる」

「人生にリセットはない。だからこそ、妥協なく修養した後に己の内なる敵に挑み、そして支配する」

「平和な世だろうが、混乱した世だろうが、笑いとばして全力で生き、そして全力で死ぬ」

蒼龍(よろず)


おわり