初めに

このパートでは、真剣に学問を求道する方を対象に、上級者向け(何の?)の内容でかなり突っ込んで書いています。木で例えると根や幹の部分で、心や精神を養う自己修養(修己)を目的とした自得のための『至誠の学問』です。

至誠とは、「誠に至る」という意味と「誠を致す」という両方の意味があります。勉強は多岐にわたっているため、最も核心的な重要部分の要点だけをここで説明して、詳細は別のページに譲りたいと思います。

今後の日本では、今までの教育で行われてきたように、協調性を重視した専門性の高い人たちも必要なことに変わりはないのですが、同時に己の誠(良知)を信じて自ら総合的に判断・行動できる『志士・処士・郷士』も必要とされていると感じます。

自己修養を通して己の本然を知る事が幸福(安心立命)に繋がると共に、社会的な面からもその必要性を論じていこうと思います。

注意:
本ページとそれ以下の記事は、2014年初期から5月頃までに書かれたものです。今読み返すと内容的に未熟な部分が散見されますが、編集せずにそのまま残しておこうと思います。2014年9月以降の最新哲学は、「真理の求道者として」ページに書かれています。

『至誠の学』の概要

自分用にカスタマイズした『至誠の学』には、儒教からは『陽明学』と『論語』と『易経』、道教からは『老荘思想』、仏教からは『原始仏教』と『祖師禅』の教えを主に参考にしています。日本に限定すれば、『士道』や『百姓』の精神、『神道』の考えも若干含んでいます。

個人的に最も共感できて尊敬しているのは、『中江藤樹』『王陽明』『夏目漱石』『宮沢賢治』の4人です。彼らの歩んできた道は、私にとって他人事には思えませんので、その志や精神の幾分かでも、受け継いで生きていければと考えています。

藤樹や漱石と似た思索修養型で尊敬している人は、『孔子』『老子』『荘子』『春日潜庵』『横井小楠』『中根東里』、そして名も無き『祖師禅の求道者たち』です。

一方、行動家で私の性格とは異なりますが、個人的に心服している人達は『大塩平八郎』『河井継之助』『西郷隆盛』『高杉晋作』などがいます。

また、王陽明のように思索型と行動型の両面を併せ持つ人として尊敬しているのは、『熊沢蕃山』と『山田方谷』です。地元の郷士としては『伊東七十郎』と『林子平』がいます。

他にも古今東西の様々な偉人や教えも参考にしていますが、説明が煩雑になるためここでは省略します。

幅広く学ぶことを通して、どの思想・哲学・宗教も根本の内容に共通する部分があるように見えました。その一方で、自分にとって納得できない内容の部分もそれぞれでありましたので、大事だと思った部分は取り上げ、省ける部分は徹底的に省いて、簡潔明快な自分用の哲学を作ろうと思った次第です。

最後に、「自然の理」も加えたかったので、地球・太陽・月を含んだ太陽系の運行をも参考にしながら、一つの文章にまとめてみました。それが至誠の学問です。

ちなみに、私の字(あざな)である『潜龍』や、肩書きである『処士(在野の士)』『百姓』『芋掘り学者』という名前にも意味が込められています。

理想を追い求めながらも、現実を忘れない実践的な人生哲学に仕上がっていると思います。ただ、それらを実践・体得できるのはまだ先の話だと思いますので、あくまで現段階では学究者としての覚悟であり、志として読んでいただければと思います。

『至誠の学』の真髄

説明はとりあえずこれくらいにして、『至誠の学』がどういうものか紹介します。次の短い文章に、最も大事な根幹部分の内容を詰め込みました。



第一弾(2014年1月13日):
真剣でたゆまぬ学問と自省により、自分に本来備わっている熱い魂(心・志・精神)を復活させ、心の奥底に眠っている神(良知・誠・自然・天)を顕現する。これを致良知・至誠・心神・自得と呼ぶ。

煮えたぎるような熱い志を持ちつつ、その表面は冷えて安定し、周囲を覆う大気は精神を養いながらも、外部の影響から心を守る。

また、書籍や偉人の言のみならず、天地万物一体により、日中の暖かい陽光も、闇夜の清廉な月光も、いかなる自然現象ですら自らの心養となる。

行動は、青い焔の如く清水の流れの如く、熱血ながらも沈着冷静、緩急剛柔一体。

万物には無限・中庸・円通・主客一如・時処位の理あり。動の中に静があり、静の中に動がある。ゆえに至誠の道は常に不変であり、同時に変動している。主観の徹底により、偉大なる客観に通ず。逆もまた真。大道を誤らないことが大前提なるも、誠の幾を捉えることが安心立命の原則なり。

これを『自然体の学』または『至誠の学』と云う。



第二弾(2014年2月7日):
文武一道と自省により、心を岩清水のように清廉で透き通るように磨き上げ、心の奥底に眠っている神を顕現する。これを『心神』と云う。

心から発する神気を発散させるに任せず、常に収斂を心がける事こそが、己の生命を全うする『自然体』への道なり。

気の凝縮は質量を高め、中心に向かって重力を発生させる。この重力の発生は、気を無為に発散させず、周囲に繋ぎとどめておく作用として働く。また、人体を覆う気は、自己の精神を養いながらも、外部の影響から心を守る役割を果たす。

これは例えば、地球に一定以上の重力無くば、地上を覆う大気が宇宙空間に霧散して、大地に生命が宿らないと同じ理なり。



第三弾(2014年3月28日):
気は一にして無限、万物の源なり。その気から人の心・精神・肉体も生まれる。志は気の帥なり。よって、学問を行う者はまず『立志』を最緊要事とする。

志を立て、文武と自省を行うことにより己の心を明らかにし、天(神)を心の内に顕現することによって神気が生じる。その発散する気を肚に集めて凝縮する工夫を精神の収斂と云ふ。

逆境または平時の時は、心気とも内に向かい己の精神を養う(慎独の工夫)。順境または有事の時は、精神を収斂しつつ、やむを得ない場合にのみ気を外に発散・拡散させ龍のごとく行動する。

これぞ時処位を弁えた志気一体、陰陽、中庸であり、修己の極意なり。



第四弾(2014年4月17日):
「我は天下の不肖人(愚か者)たる道楽者(道草の求道者)なり、世間の利発の人に非ざるなり。日々勉強致せし結果、終に狂者の胸中と做得たり」

解説:
前半の文は、沛公の態度に激怒した一介の貧乏書生、酈食其(れきいき)が「吾は高陽の酒徒なり、儒人に非ざるなり」と言い放ち、沛公に謝罪させた有名な『高陽の酒徒』の逸話を自分なりにアレンジしたもので、後半の文は王陽明の『伝習録』に載っている語をちょっともじりました。「道草の求道者」とは、わき目も振らずに一直線に道を探究するのではなく、試行錯誤をしながら真理を求道する者という意味です。また、雑草が生えて人が歩かないような道を敢えて進む「草の道を求める者」という意味もあります。



第五弾(2014年7月4日):
余は商人ではない、武人ではない、農家ではない、職人ではない、科学者ではない、技術者ではない、文学者ではない、哲学者ではない、思想家ではない、宗教家ではない、慈善家ではない、然り義人ではない、善人ではない、勿論聖人ではない、世に認められるべき何者でもない。

余は道楽者である、百姓である、認識者である、実践者である、一にして無限に依頼(よりたの)む者である、真理を求道する他に何の芸も能も才も徳もない者である。

解説:
内村鑑三「十字架の信仰」にある文章の言い回しを借りました。「一にして無限」とは、儒教・道教・仏教・キリスト教・哲学などを通して、確信に到った普遍の真理です。悟りに至るには「自力」と「他力」の方法がありますが、私は「自他合力」による真理の体得を目指しています。当然ですが、有限の存在である我々が完全なる絶対無限を「自力」で悟ることは(多分)できません。したがって、絶対者に依拠する「他力」思想と合わせて、自らを「安心立命」と「覚醒」に導きます。

哲学は通常「無限」を認識することが最終目標ですが、宗教は「無限」を信じて実践することから始まります。私の学問は「哲学」を経由して、現在は「宗教」の領域に入りつつあります。そこでそれぞれから一字づつ取って「宗学(大本の学問という意味)」と名付けました。「理」中心の哲学と「信」中心の宗教は、本来二つに一つで分けるべきではありません。私はどの宗派や団体にも属していませんので、訓詁の学(語の意味を研究・暗記する学問)に煩わされたり格法(しきたりやルールなど)に従う必要もありませんし、このように自由奔放な勉強や真理求道は、個人という立場だからこそできることです。


以上となります。

補足

ここで使っている『神』とは、神道の「八百万の神」と似たような意味です。石や木や水も神ですし、私たち人も皆、心に神(心神)を持っています。神という言葉に違和感があれば、自分の中に本来ある『(本)性』や『良知』や『』と考えても同じことです。

ちなみに、「心神」は日本の技術試験用の戦闘機(ATD-X)にも付けられている名前ですね。戦闘機設計者の心意気を名前から感じとる事ができます。

それと、学問を通して私が求めているのは、善や悪などの概念が生じて分かれる以前の『根源』や『無限』の探究であり、その体得となります。己を高める『修己』だけを追求し、人を治めるという『治人』は考えていません。

儒教のように治人を主目的とすると、修己をすっ飛ばして外見主義や形式主義に陥る悪弊が、過去の中国や日本で数多く見られましたので、特に必要性を感じていません。また、この過ちを私は自らオーストラリア滞在中の20代の頃に行っていました。人からよく見られようと常に外見を飾っていたんです。おかげで、発表するプレゼンテーションなどは大抵トップクラスの成績でしたが、今考えると虚栄に満ちた人生は虚しさしか残りませんでしたし、所詮偽物ですからすぐに塗装したメッキが剥がれます。

現在の私は、形式に囚われない老荘の「無為自然」の考えに近いです。別な言い方をすれば『剛毅木訥』(孔子の論語より)な生き方でしょうか。

注釈:
剛は無欲、毅は果敢、木は質朴、訥は遅鈍の意味。まっすぐの正直さ、毅然とした強さ、飾り気のない純朴さ、寡黙なのろまさの事です。

別に人付き合いもそれほど得意じゃないですし、偉くなりたいという願望を持っているわけでもないので、今後必要になったら考えたいと思います。全ては己を修めてからの話です。

ですから、いくら尊敬する中江藤樹・王陽明・夏目漱石・宮沢賢治の思想や哲学であっても、それをそっくりそのまま踏襲するつもりはありません。自らの性(自然・天)に沿った生き方をするだけです。

まとめ

多少内容が濃すぎるかもしれませんが、学問を究めるということを突き詰めていくと、人生や性命を問うような問題に必ずぶつかります。その部分を避けて学んでも、得られるものは少ないでしょう。

万物一体であることが分かれば、自己の内面にすべての真理が存在することに気づくはずです。問題だと感じている事柄でも同様で、自分の外に存在する問題が、自分の内にも同様に存在しないか省みることは非常に重要だと思います。

この理屈で考えると、自分の外にも真理や問題が存在することになりますが、外にばかり真理を求める態度は、物事を自分と他と区別して考えてしまう分別智の弊害に陥ります。分別智そのものは悪い知ではありませんが、注意深く考えて行動(円通)しないと、必ず行き詰ったり対立が起きます。

数学・英語・化学などは、全て自分の外にある真理を明らかにするための学問です。枝葉末節の学問ですから、『科学(枝学)』とも言えます。就職目的の『労働知』とも言えるでしょう。

心の成長を考慮しない技能中心の勉強も世の中に必要ですが、若い多感な10代の頃に最優先で学ぶべき学問ではないと考えます。極端な話、『科学(枝学)』は大人になってから学び始めても十分だと思います。

自らがどういう人間かわからず、将来何をしたいかわからない状態で、どんな高尚な事を教えられたとしても表層の知識しか得られません。それは私自身の人生経験からはっきり断言できます。自得した人間にとって、何をどう学ぶべきかは誰に言われずともわかります。

一般的には、『小学』よりも『大学』の方が高度で価値があると考えますが、『小学(根本学)』を満足に修めないで、『大学(枝葉学)』に進んでもあまり意味はありません。『小学』を習得すること自体がすでに立派な事ですから、十分に学んだという自負があれば、高い学歴がなくたって恥じる必要は少しもないと思います。

もちろん、現代のグローバルな資本主義社会で、技能中心の就職学問を大人になってから学ぶ事は、競争に不利だという意見もあるでしょうが、その代償として心を病む人が増大する事で生じる社会的経済的損失を考えてみれば、それほど悪い考えでないことが分かると思います。勉強の遅れにしたって、そんなものすぐ取り戻せます。

一言で言うと、「学びと自省を行うことで、心を養いつつ、自得(知命)し、安息(安心立命)を得る大本の学問」です。私はこれを『宗学』『性命学』『自然体の学』『至誠の学』と呼んでいます。

もし、まだご自身が人生に何を本当に望んでいるのか分からない場合は、まず数多くの書物を幅広く読んでみることをお勧めします。読むときには、必ず自省しながら読まないと意味がありません。そして、知識が増えて煩雑になってきた時は、適宜余分な知識を省いて頭の中の風通しを良くする必要があります。これをしないと、何が何だか分からなくなります。

皆さんも、学びながら自分用に人生哲学を作ってみてはいかがでしょうか?きっと良い勉強になると思います。

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