今までは哲学などの「文」中心の内容でしたので、ここでは「武」を中心にして書いていこうと思います。

文人であることが基本ですが、だからと言って文弱では自己の信念を貫いて生きてはいけません。強い武人であることも非常に大事です。

以前の記事で「忍術」を学びたいと書いたことがあるんですが、当面は「武」として「空手」を独学で学ぶことに決めました。その理由は後半で詳しく書きます。

武士の生き方の移り変わり

テレビで放送される時代劇などは、時代設定がほとんど江戸時代なので勘違いしやすいですが、それ以前の武士は皆、地元に土着して暮らしていました。つまり、武士は戦場で戦う兵士であると同時に農家でもあったわけです。普段は畑を耕して作物を作り、いざっていう時には武器を取って戦った『農兵』でしたので、自分の土地を持っていて安定した生活基盤がありました。また、兵士でもある以上、君主は農民に対して重い年貢をかけることもしませんでした。

しかし、江戸時代に入ると、「士農工商」による確固とした身分制度が出来上がり、武士も「兵農分離」によって、君主から俸禄を頂くことで生計を立てる専門職の軍人になりました。このような徳川家康による大幅な社会改革は、武士から田畑を奪って生活基盤を失わせることにより、自立心や反抗心を奪い、君主に従わざるを得ないように仕向けられたわけです。それに反抗する人たちは、容赦なく浪人の地位に落とされて、飢えさせられました。

また、林羅山は治者に都合の良い『朱子学』を官学として、武士社会に広めたんですが、特に君主に対する「忠」の教えを重視し、「下剋上」の気風を抑制しようとします。この改革と学問のおかげで、徳川幕府は堅固な社会体制を築き、260年の太平の世を謳歌したわけですが、その社会の歪が時を経るごとに次第に大きくなり、結果として明治維新が起きる要因となります。

江戸時代の頃の武士は、現代で言えば「サラリーマン」と同じ待遇です。殿様が社長で、俸禄が給料に変わっただけの話ですから、サラリーマンは現代の武士と言えます。もちろん、自分の属している組織に絶対服従という、良くも悪くも古い価値観を今でも受け継いでいることになります。

1. 文武の価値観反転

幕末から明治になると天道思想が廃れ、「勝てば官軍」的な欧米流の功利主義・拡大志向に日本人は陥り、「武」を優先して「文」を軽んじた結果、日本は軍国主義の道をひた走って他国をさんざん侵略した挙句に戦争に負けました。

お天道様(おてんとうさま)とも言うように、江戸時代までは天道思想が日本人にとって非常に大事な考えだったんですが、大塩平八郎が乱を起こして敗れ、河井継之助が北越戦争で官軍に敗北し、明治維新が起きて西南戦争で西郷隆盛が敗れた結果、天道思想は徹底的に排除され、伊藤博文などの維新元勲が中心となって天皇を現人神として祀り上げました。それが皇道思想です。詳しくは、下記リンクの書籍を参照してください。

逆に現代の平和主義の日本は「文」を優先して「武」を軽んじています。このように、一方の考えが間違っているとわかると、その逆を無条件で受け入れるという極端な思想転換は、同じ日本人である私でさえ時折寒気がします。韓国や中国が日本の軍国主義化に異常な懸念を示すのも、あながち的外れではないと感じます。

2. 文弱で平和主義だった宋国

日本の現状は、古代の「宋」という国の状況と非常に酷似しています。宋国は今の日本のように、学問や芸術など文化的には非常に華やかな時代でした。この時代に中国の3大発明と言われる、「火薬」「羅針盤」「活版印刷」技術が生まれています。しかし、学問ばかりを重視して武を怠り、安易な平和主義や妥協主義の考えが民衆や権力者たちの間に蔓延したため、強者に媚び、国防の隙を突かれて異民族の侵略を許し、国が滅んでしまいました。

このことは、実情を考慮しない理想主義や、安易な現実主義がいかに危険であるかを教えてくれます。平和主義など何か信念や主張があるのであれば、少なくとも強くあらねばならないということです。

文民統制(シビリアンコントロール)の誤解

現代は、国防に対して文民統制という考え方が常識のように受け入れられています。私も「文」が基本だと思いますので、その考え自体を否定はしないんですが、文民だからと言って「武」の知識や精神を軽んじては元も子もありません。武道の経験もなく、戦略や計略をまともに知らない政治家が、国防の実権を担っていると考えると一種の不安を感じます。また、そのような政治家を選んでしまう一般市民も同じく責任があり、「民主主義」という制度をこれからも健全に維持していくためには、非常に重い責任と義務を国民一人一人が自覚しないといけないと思い知らされました。したがって、この社会制度を最大限に生かすためには、幅広い学問と共に「武」の精神を身に付ける事が欠かせないと思います。

武道を学ぶ意義

「武」を具体的にどうやって学ぶかは、しばらくいろいろ考えていたんですが、結論から言いますと、当面は「空手」を中心に独学で学ぶことに決めました。空手を学ぶ理由は、一番お手軽に始められるという事と、精神修養と肉体修練の両面で有用だと考えたからです。

精神面では、今までの様々な学問が自分の心養にどれだけ役立ったかを知るために行います。文弱では何の意味もありませんし、自分の現在の程度をちゃんと確認しておくことは重要です。これは「自省」の一種になります。それと、半年間ずっと勉強ばかりしていたせいで、体が完全に弛んでしまいました。春から農作業が始まりますし、いざっていう時には俊敏な動作が取れないといけませんので、出来るだけ早く体を引き締めたいと思います。

また、精神を武術と一体化して「心身一如」を体現したいという事もあります。実際に強くなるためには、独学では不十分ですからどこかで誰かに習う必要があることはわかっています。しかし、別に喧嘩に強くなりたいわけじゃないですし、自分のペースによる独学で今のところは十分だと考えています。

本当は忍術を学びたい

本当は空手よりも忍術を学びたかったんですが、日本の武術なのに国内ではまともに学べる書籍が見つかりませんでした。それに、地元に忍術道場なんてありませんし。海外出版の忍術関連の書籍も購入しましたが、ちょっと内容的に独学での習得は厳しいと感じました。曖昧な情報で学ぶくらいだったら、情報ソースが豊富な空手を学んだ方がずっと良いと判断しました。

なぜ忍術にそこまでこだわるのかと言うと、「忍者」は「百姓」と非常に繋がりが深いからです。武術や兵学以外にも、農業・医学・建築など幅広い知識が求められますし、信条的に非常に相性が良いと思います。忍者は基本的に隠密行動ですから、戦いを避けたり敵の目に付かないような行動が主体となります。敵と出会っても、侍や格闘家のように真正面から戦おうとせず、逃げることが最優先で、そんな「ヒットアンドラン」みたいな考えが、一人で行動することの多い私には必要不可欠に感じます。忍術を学ぶ事を通して、人生の障害に真正面からぶつからずに、うまく回避して切り抜けるための処世術を学べればと思っていました。不器用な人間が損するのは世の常ですし。

真面目な話、なぜ日本人は忍術を軽視するんでしょうか?面と向かって真正面から戦う事が前提の空手・柔道・剣道も良いですが、最初から戦いの回避に専念する忍術は、現代の価値観に合った格闘技だと思います。

文武一道じゃないと意味が無い

民主主義社会では一人一人、少なくとも男性は皆「文武」にある程度の嗜みがあるべきです。学問ばかり学んでは、理屈ばかり達者になる傾向がありますし、一方、武ばかり学んで知識が不足しては、視野が狭くなる傾向にあります。個々人でバランスを取る事が重要です。

当サイトでは、書物を読んで学問修養する事を推奨していますが、実際本を読んで感じる事は、多くの著者が学者だったり教師を専門職にしているということです。中には本を書くことだけで生計を立てている人もいるでしょう。いくら立派な理論が書かれていても、それが現実社会で実用的かどうかはまた別の話だと思います。それに、ある人にとっては有用な学問でも、他の人にとっては無用な知識もあります。

結局、学んだ知識が人生に生かせるかどうかは、実践の中で確かめるしかありません。ですから、「道楽道」では試行錯誤してやっていきたいと考えています。

まとめ

文武一道について、このページでは「武」を中心に、武士の生き方や価値観、学ぶ意義などを書きました。まだ武道に関しては勉強が不十分ですので、後日内容を追加したり修正するかもしれません。

学問の求道だけでしたら、時間さえあればいくらでも可能なんですが、肉体的に病弱な以上、どこまで「武」を求道できるかは正直わかりません。農作業などとの兼ね合いもありますし、疲労が蓄積して病気にならない程度の限界を見極める必要があると感じます。

おわり

記事で引用した書物の購入先リンク