混乱期を迎える日本社会

たびたび当サイトでも、今後の日本が混乱期を迎えつつあるということに言及してきました。そこで私が気になっているのは、現代の日本人が世に溢れている情報や、目まぐるしい社会や価値観の変化に対して、どれだけ冷静になって判断し行動できるのか?ということです。

自分自身、震災時に飢餓の不安から食料の買い占めに走りましたし、都心部では原発事故の水資源の汚染による不安が急速に広がり、水の買い占め騒動が起きました。この危惧は決して他人事じゃありません。それゆえ、政府は一般人に対して情報を制限する秘密保護法などの法律の整備を始めたのではないか、ということを以前話しました。

では、私たち一般人は社会の変化や混乱に対して、あるがままを受動的に受け入れるしかないのでしょうか?私はそうは思いませんし、何かやれることがあるはずです。平和な時代であっても、混乱した時代であっても、自分の心は常に安息を保つことが重要です。何が正しくて間違っているのかや、自分の幸不幸については、周囲の価値観を基準にするのではなくて、自分の信念で判断して主体的に行動すべきだと思います。

実存哲学で有名なキルケゴールは、当時大衆による民主主義、自由主義的風潮の高まった当時の世相に対し、大衆社会に伴う「人間の弱体化」を懸念し、次の言葉を残しました。


「ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身の中に獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言える。ひとりひとりで弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。」
キルケゴール『現代の批判』より


150年前キルケゴールが懸念した通りのことが、現代の日本で起きています。最近の中国や韓国の無茶振りに我慢できなくなり、平和主義の反動で盲目的に強い国家を求める国粋主義的風潮に向かわないように願っています。

弱い羊がいくら集まったところで羊の群れに過ぎません。一たび狼が襲い掛かれば、バラバラに霧散し、個としても体としても脆弱です。

大塩平八郎から一言引用します。

有事に無事のごとくし、無事において有事の覚悟を養う
大塩平八郎『洗心洞箚記』より

小さな志士とは

ここで私が提示するのは、『小さな志士』という考え方です。何が正しいかは千差万別ですし、型にはめたくないので、あまり細かい定義はしません。ただし、最低でも武士道の『義』『勇』『誠』『惻怛(あわれみいたむ)』の心を備え、且つ『克己』『自得』『慎独』『戒慎恐懼』『自慊(自らこころよくする)』の精神は持っている必要があるんじゃないでしょうか。

慎独や自慊の境地について、少し詳しく説明したいと思います。

1.慎独について

熊沢蕃山によると、「慎独」の工夫とは心の中に動き芽生える私心を慎むことだ、としています。

「外に向かって人の見聞(けんもん)する所のみを慎み、内心に恥じざるを離ると云ふ、則ち凡夫なり。君子は主意とする所内に有り。天地神明を師友として、人の見聞及ばざる地、一念独知の所にをいて戒懼(恐れ慎む)す。是を慎独と云ふ」
『集義和書』より

「天地変化して、草木蕃(しげ)る。天地閉じる時は賢人隠る。易に曰く、嚢(ふくろ)の口を括った如くに咎も受けず、また名誉も受けない。これを慎むと云ふ」
『易経小解』より

「小人志を得ているときは学問道徳を嫉むから、軽々しく世の中へ出ると禍(わざわい)を受ける。そこで嚢の口を括った如くにして咎も受けず、また名誉も受けないようにする」
水野勝太郎編『易経(天の巻)』より

解説:
天地の気が通運している時は、草木が繁茂する。一方で、天地に気が塞がった時は、万物が伸びることはない。すなわち、君(天)と臣(地)の道が隔絶する時は、賢人は隠れて世に出てこない。無道の世では、君子は世に隠れていた方が良いということです。

またニーチェは言いました。
「逃げよ、わが友、寂寥のうちへ。我は汝が大いなる人々の喧騒によってみみしい、小なる者どもの針によって刺さるるを見る」

2.自慊について

自慊とは、俯仰天地に恥じず、独り静かに自足し、良心的に満足し、自分の本来を発揮し、自己の感情に自然で、思慮に責任を持つという意味です。些かも真己(良知)を欺瞞してはなりませんし、それが「心の中に快活をもたらす」ものでなければなりません。つまり王陽明の「良知」哲学とは、「自慊」を実践することに集約され、この境地に達するためには「慎独」の工夫が前提とされています。

3.民主主義に合致した志士になることが重要

己を知ることが大前提ですが、それに加えて慎み・戒め・恐れ・知足(足るを知る)・責任・自然体の心も具えている必要があると思います。我が我がと人の上に立ってリーダーになろうとしたり、周囲に目立つような行動ばかりしていては駄目で、慎みや恐れを知らない志士は、周りの迷惑になります。

人の上に立つ素質があるかないかは、「天」が決めることだと思っています。世の中には生まれつき器の大きい人がいますから、そんな人に社会を引っ張ってもらうというのも一つの方法かもしれません。

しかし、日本は民主主義の国なんですから、理想を言えば一人一人が志士になる努力を行う事で、社会の危機を乗り越えるべきです。そのためには、やはり『慎独』や『自慊』を備えた『小さな志士』でなければなりません。偉大な英雄や豪傑に救いを求めるようでは、救済と悲劇の歴史を繰り返すだけになるでしょう。

ちなみに、よろず個人が考える『小さな志士』の詳しい定義は、こちらの「潜龍・処士・芋掘り学者の意味と由来」を参照していただければと思います。


「人見てよしとすれども、神の見ることよからざる事をばせず。人見てあししとすれども、天のみること、よき事をばこれをなすべし」
熊沢番山『集義和書』より

「士は独立自身を貴ぶ。熱に依り炎に付くの念、起こすべからず」
佐藤一斎『言志四録』より


小さな志士への条件

大半の日本人は「慎み」や「恐れ」を知ってはいても、「志士」になる教育を受けていません。大戦の反省を経て、平和な時代には不要な思想だと思われたのかもしれません。確かに、戦前・戦中に日本を軍国主義に走らせたのも一つの「武士道」ですので、学ぶ際には時間をかける必要があるでしょう。

私が『志士』の中でも特に『処士(在野の武士)』にこだわるのは、過去の「武士道」の過ちを犯したくないからです。武士道も権力や体制側に長く依っていると、段々と頽廃していきます。明治維新の起きた理由が、大塩平八郎が乱を起こした時の檄文にも書かれているように、武士の堕落にあることを忘れてはいけません。

つまるところ、『小さな志士』とは『処士』と同じ意味で使っています。

志を持った処士に己を変えていく為には、いくつかの条件と共に努力が必要とされます。それらをこれから一つ一つ見ていきたいと思います。

1. 現在何らかの非常な苦難に陥っている事

この苦難というか、生きる望みもないような絶望を感じた経験がないと、自分を根本から変えようとする動機や必死さが生まれません。ですから、万人が志士になれるわけではないと思います。

もちろん、軍隊や格闘技などの厳しい訓練によっても、武士道の精神を叩き込むことは可能かもしれません。しかしそれは、元々強い人だからこそできることであって、万人に通じるやり方ではありません。

私のように元々弱い人間が強制的に訓練させられると、歪んだ精神や思想を身に付けてしまう可能性があり、当人にとっても社会にとっても利は無いと思います。

弱い人間には弱い人間なりの学習方法があります。己のペースで自覚して独学することが、当人にとって一番良いのではないでしょうか。

種を植えてどんなに水や肥料をやっても、すぐに成長できるわけではないですし、過剰な施肥はかえって苗を枯らしてしまう結果にもなりかねないので注意すべきです。必要分の水や肥料を適宜補給することが、生命の成長に一番無理がなく、自然の理にも沿っています。不思議な事に、植物相手だとうまく育てられる人でも、人間相手だとすぐに結果を求めるようなことをして、可能性を台無しにしてしまう人の多い事に驚きます。

つまり、何らかの挫折を経験している引きこもりやニートこそ、志士になる素質を他の人よりも多く備えていることになります。この事については、改めて別のページで詳しく書きたいと思います。

2. 苦難から救われたいという非常に強い気持ちを持っている事

次に、その苦難から救われたいという強い願望がないと意味がありません。ただし、絶望などを感じている場合は、救いを得ることと自殺することとが同じだと感じてしまうかもしれないので注意が必要です。

人は理由があって天(自然)から生まれてきますから、無駄な生命などこの世に存在しません。これは私の個人的な考えではなく、この世の真理です。社会にとっては役立たずの烙印を押される人がいたとしても、自然や天にとっては皆平等です。意味があり価値があります。

本人にしかわからない生きる本当の理由(天命)があるはずですので、まずはそれを徹底的に探究してもらいたいと思います。それが自得ということです。

3. 自由な思索ができる、十分な時間や環境を確保できている事

この自由な思索のための十分な時間や環境を確保することが、多くの人にとってはハードルが高いかもしれません。

しかし、安心できる静かな環境でゆっくり自省できる時間が取れないと、かえって迷いのスパイラルに陥る可能性があります。なぜなら、知識を学ぶことはできても、ゆっくり自分の頭で考える余裕がないからです。現実的には、心から安心できる実家で自己修養することが一番いいと思います。

また、世俗の情報に極力触れないようにして、自分の考えが他人の意見に左右されないようにする必要があります。そのためには、世間から距離を置くという事も重要です。いったん自分というものを持てば、どんな情報に触れても心配はないでしょうが、その時が来るまでは修養に集中するべきです。

ここで、太平天国の乱で平定に尽し、後に常勝将軍と呼ばれた英国軍人、ゴルドン将軍の言を紹介します。


「人は実を結ぶ前に先づ世間の事に死せざる可からず。此は無論なり。然らば世間の事に死すとは何ぞや。馬鹿、空想家、空論家、始末におへぬ男、無鉄砲者、(外見より)悪を赦す者、熱中家、凡庸漢などと算せらるるなり」
徳富蘆花『ゴルドン将軍伝』より


王陽明は仕事などをしながらでも自己修養はできる、ということを『伝習録』で言っているんですが、それはすでにある程度強い人に限られると思います。

弱い人にとって、世間の波に揉まれながら自己修養を行う事は、まるで種から芽を出したばかりの双葉を痛めつけるようなものですから、十中八九大きく成長する前に苗が枯れてしまうでしょう。

王陽明の生涯を学べば分かりますが、子供の頃は腕白ないたずら坊主(豪邁不羈)であったと共に、求道的繊細さという矛盾する性格を併せ持った類い稀な人です。陽明は一度真剣に悩むと自発的に学ぶための行動を起こすことができました。私の若い頃のように、いったん悩んで思いつめたら、不安のあまり蛇に睨まれた蛙のごとく何もできなかったわけではありません。ここが、私と陽明との根本的に異なる部分です。

さっきも言いましたが、生まれつき弱い人にはそれに見合った修養方法があります。そういう観点で、中江藤樹・夏目漱石・宮沢賢治の人生や思想が非常に参考になりました。

4. 多くの書物を読み、自省し、自得する事

上記3つの条件がクリアされていれば、後は自己修養の実践をするだけです。もしやる気が出てこない場合は、何かが自分の中でかみ合っていないんだと思います。とにかく書物をいろいろ読んでみたり、何がおかしいのか自省してみることをお勧めします。

かつて、多くの志士たちを奮起発奮させた「抜本塞源の論」という文章があるんですが、かなり長いので最後の方だけをここで紹介します。もし全文を読みたい方は、リンク先の書籍をお求めください。



「ただ幸いに、天理が人心にあるというこのことだけは、絶対にほろびることはなく、良知の清明は万古一日の如くに不変であります。であるならば、いや、わが抜本塞源の論を聞くことによって、必ずや、惻然と悲しみ、戚然と痛み、憤然として起ち上がるものが現れ、その勢いも、やがて江河の堤を破って奔流するごとくに、防ぎようなく激しいものとなるでありましょう。私が望むのは、いっさいの権威に依存することなく、自らの脚によって興起するかの豪傑の士に他ならず、それ以外に誰を待ち望むものがあろうか」

『王陽明 伝習録』顧東橋に答えるの書(抜本塞源の論)より


注釈:
上記の書物(中公クラシックス版)は、オリジナルの『伝習録』の翻訳なので、内容を十分理解するためには、四書五経(大学・論語・孟子・中庸など)の知識が必要となります。ですから、最初に孔子や孟子の書物を読んで基礎知識を身に付けるか、または初心者向けの解説が豊富な『伝習録「陽明学」の真髄』や『真説「陽明学」入門』をお勧めします。

自分の本然を発揮する

いったん自分がどういう人間かを知ることができれば、後はその信念に従って突き進むだけです。この段階まで来れば、志を持った『志士』と呼んでも私は良いと思います。もちろん『志士』と言ってもピンキリですので、絶えず修養を行い続け自己を高めるべきです。

参考までに、大悟した豪傑としての心境を、王陽明が詩に表現しています。



険夷(けんい)もと胸中に滞らず
何ぞ異ならん、浮雲の太空を過ぐるに
夜は静して、海濤(かいとう)三万里
月明にして、錫を飛ばして天風を下る

意味:
逆境や順境(険夷)にも超然たる心境は、大海原(海濤三万里)に仙人の錫杖を使って、澄みきった夜空から天風を下るようだ。


詩が作られた背景:
宦官の劉瑾を批判したため、暗殺者を仕向けられた陽明は、逃げる途中の山寺で旧知の道士と出会い、今後の進退についての苦悩を打ち明けました。この時、道士の説得で、陽明は進んで危難を引き受ける覚悟を定めて詠んだのがこの詩です。

解説:
「生死の苦境を克服超脱して始めて悟りを開いたときの心境をよく歌いあげているが、特に第二句、第三句において、壮大な景観と豪快な行動とをもって、悟境を比喩している」
岡田武彦『続東洋の道』より

まとめ

ここでは、『小さな志士』つまり『処士』を目指すことの重要性についていろいろな観点から書いてみました。それは、己のためであると共に、社会の為にもなるということを私は信じています。

ただし、皆が志士になれるわけではないと思います。なぜならば、自分を変える為にはそれなりの強い動機が必要になるからです。同時に、学問と自省を十分に行うためには、まとまった時間と静かな環境を用意しなくてはなりません。一番手っ取り早いのは、実家で修養する事だと思います。従って、引きこもりやニートが一番志士への道に近いという理屈もここにあります。詳しくは次のページで書きます。

王陽明の詩を読むと、死生を超脱した悟りの境地は深淵で雄大なものだと感じます。私はそこから、心が澄みきる清廉で晴れ晴れとした感じを受けます。

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