第2回 夢の中の真実-普遍の真理へ

いろんな考察

一本の木

昨夜、気になる夢をいくつか見たので、忘れない内に書いておこうと思います。前回の記事でも書きましたけど、夢の中での自らの行動を知ることによって、現在の自分がどの程度の精神性を備えているのかも、大体理解することができます。結論から言えば、一年前の私と比べれば、多少は成長したかな?という程度でした。正直、精神的に大きく成長している思っていたので、ちょっと予想外です。

夢で見た記憶は、あっという間に頭の中から消えていってしまいます。ですから、メモ帳などに書き留めることが必須です。昨夜は五つ位夢を見て、その内の三つを書こうと思っていたら、すでにその内の一つが何だったか忘れてしまいました。夢の中では深刻に感じていたのに、覚めた途端現実感が無くなって、遠い世界の出来事になってしまい、どうでもよくなってしまうからかもしれません。

裸の心と何かを背負った心

一つ目の夢は「心」についてです。いろいろ気づかされる事がありました。プライベートに関わるので、あまり詳しくは言えませんが、夢の中で非常に傷つく出来事があったんです。比喩的に表現すると、胸をナイフで刺されたような、辛い心の痛みでした。

普通、大人になるにつれて、多くのものを抱え込むようになります。そして、若い頃のように自由な行動が取れなくなり、心にも壁を作るようになります。ですから、30歳を超えたあたりから心を許せるような友人が作りづらくなります。

現実を重視して生活している人達は、自ら望んで何かを背負って生きています。自分以外の何かを余分に背負っている代償として、生活の安定が保障されるからです。例えば、サラリーマンが良い例だと思います。自分の自由に制約が掛けられている分、安定した給料を稼げるなどの対価を得ています。心に甲冑(例えば「正社員」などの肩書)を着ているようなものですから、少々の精神攻撃ではびくともしないかもしれません。

汚れた水と油一方、自由で余計なものを背負っていない私は、ある意味心が裸の状態ですので、他の人だったら大した事にならない痛みも、一発で大きなダメージになる場合があります。綺麗な水ほど、不純物がちょっとでも混じると汚れが目立ちますよね。

昭和最大の哲学者である西田幾多郎、「則天去私」に達した夏目漱石、近江聖人の中江藤樹などは、皆激発しやすい癇癪持ちで、彼らは人より深く喜怒哀楽の感情を感じ取る事ができました。

それ故に優れた哲学や文学を生み出すことができたわけで、求道者にとってはなくてはならない能力なんですが、一方で心が繊細で傷つきやすくもあり、暴れ馬のような己のコントロールには相当の修練が必要になります。中には、自ら発する業火に自滅する人も多いはずです。

この諸刃の剣である感受性の高さによって、他の人には気づかないような深い思索ができたり、果断な行動に移すことができるわけで、心に重く圧し掛かるような甲冑を着込んでしまっては身動きが取れず、せっかくの能力が台無しになってしまいます。

求道者は若者のように、常に心身を身軽にしておかないといけません。空を飛んでいる鳥を思い浮かべていただければ、その理由が分かっていただけると思います。当たり前ですが、体が重ければ飛べなくなってしまいます。

ただし先ほども言いましたが、外からの攻撃に非常に敏感なので、自らの体(心)を鍛えて己自身の防御力を高めると同時に、痛みにも耐えられるような精神力を身に付けなければなりません。心の痛みに対して鈍感になるのではなく、最初から痛みを受け入れること前提で考えるんです。ですから、どんなに精神修養しても、心の苦痛からは一生解放されない事になります。

私は10代や20代の頃に大きな過ちを犯したんですが、それは心の苦痛を消すために、感情を完全に消す努力をしていた事です。喜怒哀楽が激しすぎる自分を恨んでさえいました。感情を消すのは比較的簡単ですし、確かに心の苦しみから一時的に解放されるんですが、後で大きな問題を引き起こします。感情の働きが無くなれば、何年経っても心の成長は見込めませんし、もはや人というよりはロボットに近くなります。人が人たる所以は、「情」を持っているからです。その特性を自ら消してしまうのは良くない事だと思います。

全てを破壊する大津波

2つ目は、全てを破壊するような大津波に、自分が飲み込まれた夢を見たことです。記憶が曖昧ですけれど、イタリアのような建物が並んでいる場所を徘徊していました。現実のイタリアとは外観がまったく似ていないんですが、雰囲気がなんとなく似ているというだけです。あちらこちらに見たこともないような噴水があって、不思議な空間だったと記憶しています。

町の中を歩いていたら、悪意の塊のような存在が目の前に現れて、突然周囲全ての噴水の水が止まったと思ったら、その少し後に、大きな音を立てながら津波が押し寄せてきて、目の前にある頑丈なコンクリートの建物を真っ二つに破壊し、私も一瞬で飲み込まれてしまいました。あの時、圧倒的な力に対して、何をやっても無駄だという虚無感を感じていました。

夢の中ではありますが、大津波に飲み込まれる瞬間を疑似体験したわけです。私は3年前の東日本大震災を経験しているんですが、津波そのものをこの目で見ていたわけではありません。ですから、実際に津波を目の前にして、自分がどのような感情を持って行動するのか、理解できて良かったと思います。もし当時、津波を目撃するような状況にあったら、この世にはいなかったはずですから。

道を極めて頂点に至った後の選択肢

上空からの俯瞰人はそれぞれ自分が登るべき山を持っています。私も今、自分の山を登っている最中なんですが、目指すべき方向性や到達点がやっと見えてきました。

まだ先の話になりますが、いずれ山の頂上に到達したら、さらに高みを目指すのか、それとも下山して平原で生きるのかの選択をしなければなりません。

なぜならば、山の頂に居続けても、自分一人では生きていけないからです。頂上は寒いですし、人もいなければ、食べ物もありません。出家したお坊さんを見ればわかりますが、托鉢して他の人から食べ物などを恵んでもらわないと、生きていけないようになります。もちろん、祖師禅の時代のように求道者同士で協力し合いながら、自給自足して生きていける選択肢が現代にあれば、話は別です。



兇悪な動物となるか、それとも兇悪な動物使いとなるか、そのいずれかを選ぶよりほかないすべての者を、わたしは呪われた者と呼ぶ。こうした連中のそばには、わたしは「小屋を建てない」だろう。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』より

補足:
古今東西、真理の求道者は人里離れた山などに篭って修行した大きな理由の一つが、ここにあるのかもしれません。昔は山は神聖なものとして崇められてきましたが、登山がブームで「神が死んだ」現代の社会に生きる私たちにとっては、真に安息できる逃げ場は自宅以外にはないと思います。それと、大都市社会を否定するニーチェの言及する「悪」とは、多分一般の人達が考える道徳的な「悪」ではないはずです。法律や道徳で定義される「善」や「悪」は、状況や時によって移り変わる、有限的で固定観念的なものですから、そこには多くの矛盾が含まれています。

ちなみに私個人が考える理想の人類とは、民主主義の下で主体的な精神を身に付けた自分の頭で考えられる強い人間のことであり、そのためには善悪に対する定義を個々人が見い出す必要があると考えています。決して難しいことではないと思うんですが、自らの意志で決断して行動に移さないと、そのような学問を行う機会は一生訪れないでしょう。


山の頂からさらに高みを目指す生き方と、下山して人と交わる生き方の両方を、学問や宗教の観点から、それぞれ例示して考えていきたいと思います。

1.道教と儒教

道教は老荘思想や神仙に代表されるように、自然と一体・根源の探究・長寿など、本来の人としての在り方や生き方を求道する教えです。その哲学は、超常的で世間一般の常識とはかけ離れているようにも見えるため、本当の理解者は少なく、隠遁者としての生き方を選ぶ人も多いと思われます。陰陽で言えば「陰」ですし、気学で言えば「収斂」の傾向があります。本物の道士は、損得や名声を求めないので、自ら書物を著さず、後世に教えが伝わりづらい弱点があります。

一方、儒教は孔子や孟子に代表される、規律や道徳を尊重する人間中心の教えです。自然や超常的な事には、ほとんど言及しません。万民を幸福に導くために生じた思想ですから、昔から中国や日本で政治や権力に深く結びつく形で広められました。陰陽で言えば「陽」ですし、気学で言えば「発散」の傾向が若干強いです。儒者は名声を重視しますので、儒学の記録がたくさん後世にまで残っており、参照には事欠きません。

現実的にはどちらの教えも必要ですが、現代社会は「陽」や「発散」の傾向が著しいので、「陰」や「収斂」を重視する位で全体のバランスが取れると思います。

2.超人と人

ニーチェの「超人」から参考にしています。30歳を機に世間を捨て山にこもり、孤独な思索生活を送った超人、ツァラトゥストラは、10年後山を下り、ヨーロッパ全土を覆った「近代」の欺瞞と偽善、弱さといったものを容赦なく断罪しました。多分日本にも「超人」はいるはずですが、どこにいるのかわかりませんね。ぜひ会ってみたいものです。

私も「超人」になれる素質はあるはずですが、ニーチェの本って読みづらかった記憶があるので、あまり深入りしたいと思いません。ちなみに、ここで言う「人」とは、普通の「近代人」を指しています。

3.仏と地蔵菩薩

仏教の「仏」と「地蔵菩薩」の違いも当てはまると思います。仏は衆生を救うために、どこか別次元の高みから民衆を一挙に救済しようとしますが、一方の地蔵菩薩は、民衆と苦楽を共にしながら一緒に極楽浄土へ行こうと祈り続けているお坊さんのことです。どちらも立派な事に変わりはありませんが、民衆の視点に立って行動しているという点で、地蔵菩薩の方がありがたいかもしれません。

4.カレルレンとフェイ&エリィ

カレルレンゲーム、ゼノギアスを例に出すと、「カレルレン」と「フェイ&エリィ」の、それぞれの生き方の違いが当てはまります。

ソフィア様カレルレンは、本来救われるべき信心深い聖母ソフィア(右真ん中の写真)が犠牲になる現実を見て、神がこの世に存在しない事を嘆き、自ら神を創り出すことを決意します。

分子工学の権威である彼は、人を本来の役目である神のパーツとして利用するため、人の遺伝子に細工をし、意図的にミュータント化させ、彼らを生物化学工場で分子レベルまで分解し、それらを再構築することによって天使(アイオーン)を生み出します。

散々極悪非道なことをやってのけた彼ですが、最後はこんな罪深い自分を許してくれる存在は神しかいないとして、神と共に歩むことを決めました。

一方の主人公フェイとエリィは現世に戻って、仲間達と一緒に地上で生きていくことを選択します。最後のお別れ時に、カレルレンがフェイたちに向かって「おまえたちが羨ましいよ」と言っていたのが印象深いです。

ソフィア様の教えちなみに、ソフィア様の教えは心の内面に神(良心や誠)を顕現するキリスト教のプロテスタントや、儒教の陽明学と似ており、私の人生哲学も彼女の教えと同じようなものです。ただ、慈愛よりも義・誠・勇に重心を置いていますが。

5.神道と人道

神道とは読んで字のごとく、神の道ですし、それと対になるのが人の道(人道)です。陽明学の祖である王陽明は、人を超越した「神道」ではなく、人と一緒に生きていく「人道」を選択しました。同じ陽明学の系統である熊沢蕃山も、同じことを主張しています。

つまり、人が付いてこれないような高みばかりを目指すのではなく、下山して一般人と一緒に生きることが大事だ、ということです。言っていることはもっともだと思うんですが、陽明や蕃山が頂点を極めた人達だからこその言葉のような気がしないでもありません。最初から高みを求めずに、山を無視して平野だけで生きていくことが良いことだと私は思わないからです。

6.光の子とこの世の子

キリストの言葉を借りると、「光の子」と「この世の子」という場合も当てはまるかもしれません。ただし、他の事例とは若干意味合いが異なります。キリストは「この世の子らは、その時代に対しては、光の子らよりも利口である」と言ったり、「どんな召使いも二人の主に兼ね仕えることはできない。神(真理)とマモン(世俗の富)とに兼ね仕えることはできない」、または「人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われる」とも語っています。

私が絶望的に金儲けが下手なのも、これで納得できます。27歳の頃、ビジネスに志した事があるんですが、心にブレーキがかかってどうやっても全力が出せませんでした。当時の状況を車で例えると、アクセルを全開にしながらブレーキを踏んでいたようなもので、当然そのままにしておけば車が壊れてしまうように、私の心も壊れる寸前でした。人は「真理の探究」と「世俗の富」を両立することはできないんです。



「学問を作す程となれば、世間の利発の人となるなかれ、世間の愚者となるべし。余も世間の愚者とならん事を願い、ようやく苦穴に陥るまでに勉強致せし。故に、世間の利発者流の人は、吾が志を知らざるなり」
堀哲三郎編『高杉晋作全集(下)』より

補足:
高杉晋作の「世間の愚者」とはキリストの言う「光の子」の事であり、つまり人の世で真実の道を求める愚直な理想主義者のことを指しています。また、「世間の利発者」とは「この世の子」に相当し、打算と実利的な処世知に長けた世俗の勝者を意味します。


入口は異なっても、出口は同じ

いろいろ学んで私が感じたことは、様々な宗教・哲学などを通して、学ぶ入口は異なっても、最終的には「一にして無限」という普遍の真理に行き着くと感じました。問題は、真理の一端に触れた後はどうするのか?ということです。

そのまま高みを目指すのであれば、前述したように余計なものは捨てて身軽になる必要がありますし、下山して元に戻るのであれば、弱肉強食の世界で生き抜くために、己の心に甲冑を被せて、戦う準備をする必要があります。当然戦うからには、ある程度の自他の犠牲は覚悟しなければなりません。陽明や蕃山の偉大な所は、人々の犠牲を極力生み出さないように努力し続けたことです。しかし、彼らは自らの理想を現実社会で実践しようとしたため、当時の権力者たちを怒らせてしまい、傍目には失敗者として、生涯辛い人生を送ることになりました。

まとめ

昨夜私が見た「心」と「津波」の夢の話から始まって、自らの道を極めた後にどのような選択肢があるのかを、いくつかの視点から考えてみました。

求道者は身軽に行動できるようにするため、純真な心が必要とされます。一方、現実社会を重視して生きる場合は、自由を犠牲にして何かを背負い、戦いながら己や周囲を守っていく必要があります。普通はあまり悩まない事なのかもしれませんが、私にとっては難しい選択です。

多分ですが、今の平和な世で自分のような人間は、お呼びじゃないような気がします。『潜龍』という名前にも、「世に潜んで生きる」という意味を込めていますし、仮に必要になるとすれば、その時は社会が混乱した時でしょう。江戸期屈指の思想家である熊沢蕃山は、「人に信ぜらるべき徳はなし。国家の用をなすべき才はなし。ただ無用の者とおぼゆ。ただ山中の一木石と成べき人がらなり」と言っていますが、私もそんな感じがします。



「斥斧に夭(たちき)られず、物も害する者なし。用うべき所なくも、安(なん)ぞ困苦する所あらんや」
『荘子』より

解説:
役に立たない無用の大木は、材木としてまさかりや斧で伐り倒される心配もなく、そこにただ存在することによって、洪水などの自然災害や砂漠化を未然に防いでいる、という意味です。つまり、世間的には無価値な人も、逆にこれが幸いして俗世間にいたずらに翻弄されることがないため、かえって真実の人生を生きることが出来、それ故に世に役立つことができます。無用だからこそ用いる面がある、「無用の用」です。この考えは「総合学」や「百姓」の基本にもなっています。

私のような世間の愚者は、何か特定の専門家になるよりも総合家を目指すのが相応しいと思います。現代社会では、何かの役に立たせようと、無用の大木ですら無理やり切り倒そうとします。人は己の欲のために、山の木を全て切り倒して禿山にし、その結果自然災害が発生しやすくなった事で、初めて自らの過ちに気づきました。しかし、その犠牲になる方はたまったものじゃありませんので、損得で動く社会の犠牲になった人たちのためにも、そしてこれから犠牲になろうとしている人達を守るためにも、何かできないかと考えています。


中庸(中道)や陰陽こそ至高の境地ですが、実践は非常に難しく、一歩間違えばどっち付かずの中途半端になりかねません。一つの解決策として、道の頂点を極めたら、少しずつ現実社会にすり寄っていき、理想と現実の狭間で妥協点を見つける以外にないのでは?と思っています。

いずれにしろ、根源を探究して無限や中道の体得に至るまでは『狂者』を自認して生きていきます。

おわり

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