私の2ちゃんねる利用法-嘘を嘘とry

今回は「2ちゃんねる」という掲示板に話を絞っていろいろ考えてみたいと思います。というのも、以前の私は2ちゃんねるのコメントを読んでいても気にならなかったのに、現在はいろいろ考えさせられることがあるからです。

上記のイラストを見る限りでは、子供向けのサイトに見えなくもないですね。まるで、表面が甘くて内部が苦い、糖衣で包まれた丸薬のようです。まあ、実際は副作用のある劇薬と言った方がより的確だと思いますが。

苦い味を理解し、副作用があっても必要悪として冷静に受け入れるためには、大人でも厳しい部分があるサイトです。ですから、2ちゃんねるを多感な子供に見せてはいけません。

補足:
記事を書いている最中に知ったんですが、現在2ちゃんねるの閉鎖騒動が起きていますね。サーバー管理者であるジム氏を除いて、創始者であるひろゆき氏を含む、管理人のほとんどが解雇されたようです。以前、クレジットカードの個人情報が流出して大きな話題になりましたから、そのためにカードで支払う人たちが減って、資金繰りが悪化したことが原因のようです。今回は結構マジな部分があるかもしれません。

もし2ちゃんねるが閉鎖されたら、この記事も無用になるわけですが、せっかくある程度まで書いたので、一部を修正してそのまま掲載したいと思います。

2ちゃんねるの落とし穴

何と言うか、「2ちゃんねる」には、落とし穴的な危険性が潜んでいるような気がします。匿名掲示板だからこそ、本音で言い合えるという事もあるでしょう。良い面もあることは確かなんですが、最近はマイナス面の方が大きいんじゃないかと思うようになってきました。別に2ちゃんねるが悪いと言っているわけではなく、サービスを利用する人の方に一部問題があるように見えます。

1. 匿名だからこそ、人の本性がみえる

記憶が正しければ、2ちゃんねるの事を「便所の落書き」と揶揄したのは田原総一郎氏だったでしょうか。言い得て妙な表現だと今では思います。

匿名掲示板ですから、ユーザー登録しなくても誰でもコメントを書き込めます。最盛期と比べれば、利用者数も随分減ったというニュースをどこかで見たような気がしますが、いまだに世論に大きな影響力を持っていることに変わりはありません。

一般人にとっては個人を特定されずにコメントを書き込めるため、歯に衣着せぬ言葉も目に付きます。日本人のことを奥ゆかしいとか大人しいと思っている外国人が読めば、ビックリすること疑いありません。以前から思っていた事ですが、他者を認めて肯定するコメントよりも、否定して貶めるコメントの方が多いような気がします。扱う話題や板にもよるでしょうが、私はそう感じます。

自分以外の誰かを見下すという事は、自分の存在を他者よりも上位に置いていることになりますが、特に弱者に対しては非常に厳しい意見が多いですね。現代社会の成り立ちや全体像が見えていれば、弱者の存在を否定することは、自らの存在すら否定することになるんですが、あそこではいくら言っても無駄に感じます。努力だけで皆が年収500万以上稼げるようになるなら、誰も苦労しません。

そういう無遠慮なコメントをする人たちが、現実世界でどういう社会的地位にいるのかはわかりませんが、仮にどんな地位にいようと、人を見下しているようでは普通生きていけませんよね。

ということは、自分の本性を隠して普段は生きているんでしょうか。それとも、単にストレスが溜まってつい粗暴な発言になっているんでしょうか。どちらの可能性も考えられそうです。

実は、私も20代の頃に、ほんの一時期だけ好戦的なコメントをしていた事があります。気が荒れていたからですが、日常の不満を外部に暴発させるような形でしたので、私の場合は後者のケースになると思います。

直感的に恐ろしいと感じたのが、前者の二面性を持った人たちです。社会では常識人として振る舞っているのに、自己を特定されない匿名のネット世界では、同じ人間とは思えない非人道的な発言を平気でします。ストレスがどうとか言う可愛いものじゃありません。「他人の不幸は蜜の味」ってことでしょうか。誰でも本来持っているはずの善や誠の心が、まるで厚い雲に覆われているようです。非常に深い闇を感じます。

自分を持っていない感受性の強い人は、他人の心の闇に容易に影響を受けますので、2ちゃんねるには近づかない方が良いでしょう。自分では気づかないでしょうが、多かれ少なかれ影響されているはずです。あまり感情がない人や、鈍感な人であれば、それほど心配することはないと思います。

2. 本音と建て前

次に、ひろゆき氏の「嘘は嘘であると見抜ける人でないと掲示板を使うのは難しい」という発言は聞いたことがある人は多いと思います。本音と建て前(嘘)をうまく使い分けるということは、大人として生きていく為に当たり前のように感じますが、最近それが本当に正しい事なのか、疑問に思うことがあります。

以前、「2ちゃんねる」に良かれと思ってコメントを書き込んだ際、ある人が私のことを「貧困ビジネスの回し者か」と難癖をつけてきました。本音で書いたつもりですが、読む人によってはこちらの意図しない意味に受け取るんだと思い知らされました。

このように人を疑い始めると、騙されないようにと心に壁を作って、自らを守る傾向が強まるわけですが、そのことにより多くの真実もフィルタリングして排除しますので、視野が狭くなる傾向があります。会ったこともない他人に対して、右翼や左翼、引きこもりやニートなど、思想や境遇に対してレッテルを張って判断する人に多いですね。そんなに単純に人を色分けなんてできないはずですが、世の中の流れが早すぎて、ゆっくり考えている暇がないから、単純化して理解しようとすることもわからなくはありません。

ひろゆき氏がどういう意味で発言したのかは量りかねますが、人を疑ってかかる態度そのものが間違いではないにしろ、決して社会全体を良い方向に向かわせるとは思えないです。人同士の騙し合いには際限がないので、騙されまいとしていろいろ知識を増やして自己防御を高めると、騙そうとする方はその防御を突破するために新たな手法を見つけます。

これは、以前話をしたECMとECCMとの間の開発競争に際限がないことと同じ理屈です。一方が、より良い性能のジャミングシステムを開発すれば、もう一方はそれに対抗するためのアンチジャミングシステムを開発します。そうやって競争を続けていくうちに、最終的には原始的な戦いが一番確実だということになります。

人とのコミュニケーションも、いずれは「騙しても意味がない」または「騙されても害がない」という形に向かっていくんでしょうか?個人が損も得もせず、小細工を弄しない確実な情報伝達手段だけで、生きていくことは可能なんでしょうか?自分でも何言っているのか分からなくなってきたので、ここらでこの話は止めておきます。

キリストは、悪いことを頭に思い浮かべただけでも、罪になると言いました。普段悪いことを考えているくせに、行いだけは善人ぶっても駄目だという事です。それで世間は騙せるかもしれませんが、自分の心までは騙せません。

しかし、実際悪いことを少しも考えずに生きていくことは難しいです。隠遁者として、他者と関わらずに引きこもって生活していれば、己から生じる悪意だけを排除すれば良いので簡単なんですが、外で人の悪意に当てられると、自分もそれに影響されることが多いと感じます。私の心は高感度ラジオみたいなものですから、他の人が視えない部分や気づいていない部分も容易に感じ取れますので、中々キツイ事もあります。まあ、その能力のおかげで書く話題に事欠きませんから、当サイトも運営できているわけですが。

3. ネガティブコメントや疑心暗鬼による社会的悪影響

悪意のあるコメントや疑心暗鬼が、どのように人の心に影響するのかをここで考えてみたいと思います。そんなに難しい事ではないはずですが、いい歳した大人でもわかっていない人たちが多いですね。

ある人が他の人を否定したり見下したりすれば、当然負の感情をぶつけられた人は不満や怒りを感じます。では、その怒りや不満はどうすればいいんでしょうか。普通は外に発散させるんですが、その対象が弱者に向けられるのが世の常です。そうやって負の連鎖が始まり、社会的階層(正社員や派遣など)が出来上がってきます。上下関係を作りたがるという点で、人間は動物と本質的に変わるものではありません。

もし、人類がさらなる進化を遂げるとしたら、そのような動物としての低俗な本能を克服した時だと思います。いくら科学が発達しようと、心がサルのままではいずれ行き詰まって自滅するからです。

また、負の感情を内に溜め込んでいくと、昔の私のように心身を病むことになります。そのまま放って置けば、多分長生きはできないでしょう。最近気づいたんですが、家の祖母が90歳超えても元気なのは、ストレスを溜め込まない性格だからです。まあ、そのおかげで周りが大変な部分もあるんですが、いずれにしろ、高齢者の介護は一人では絶対できないと思います。

社会に最も有害な人たちとは、他人を見下し、悪意をぶつける人たちのことだと思います。その中でも、保身が上手くて小賢しい人が一番やっかいで、本人は賢く振るまって法律上は無罪かもしれませんが、どこかの誰かを間接的に有罪にしている可能性があります。

秋葉原の無差別殺傷事件は、その典型的な例だと思います。あれは全く関係のない人たちが、たくさん犠牲になってしまいました。犯人は当然罰を受けましたが、彼を犯罪に導いた大元の人達は受けるべき罰を受けていないと思います。もちろん犯人が一番悪い事に変わりはありません。しかし、彼をそこまで追い込んだ人たちを見逃しては何の意味もないでしょう。

子供のいじめ問題も同様で、子供の世界は社会の縮図なんですから、大人の程度が低ければ子供も真似をします。つまり、大人のいじめをなくさない限り、子供のいじめも無くならないということです。

また、飢えで苦しんでいるアフリカの子供達も同じで、彼らを助けようとしても、それが根本解決につながりはしません。この世界は、上位1%の人達が富のほとんどを牛耳っています。それなのに、残りの99%の人達に寄付を募るのはどうなんでしょうか。余る程お金を持っている人達が、ちょっとお金を出せば飢餓で苦しんでいる数多くの人達を救えます。一般人にとっては、1万円でも大金ですが、金持ちが100万円出しても生活が苦しくなることはないでしょう。

誰かを不幸にさせたり、怒らせたりすれば、当人には直接反撃がないかもしれませんが、他の誰かが犠牲になるかもしれません。本当の悪党とは、そのような悪意をばら撒いているにも関わらず、法律では裁けない人たちの事だと思います。

4. 根本を無視して枝葉末節の議論は無意味

こういう類の問題は、新たな法律を作るとか、監視カメラを増やすとかの枝葉末節の対策を行っても、費用ばかりかかるだけで、決して解決には向かいません。もちろん、それらもある程度は必要なんですが、同時に根本の問題にも目を向ける必要があります。つまり、人を騙し騙される大元は、人自身にあり、人が作った社会にあります。根源から着手しないで、いくら新たな法律や兵器などを作ったところで相手が対抗策を示してくるだけです。小細工を弄すれば弄する程、泥沼試合から抜け出せなくなります。

私の2ちゃんねる利用法

参考までに、私の2ちゃんねるの利用法を書いておきたいと思います。別に大したことではなく、他の多くの方達がやっているであろうことを書くだけです。

1.大まかに情報を得たら、すぐに退散する

掲示板は情報をまとめて確認するには丁度良い媒体なので、私は気になるニュースを一通り確認したら、極力コメントなどは残さないですぐに退散するようにしています。

たとえコメントを書き込んだとしても、あまり意味がないような気がしますしね。短文で書くと説明が不十分なために、必ず否定意見が書き込まれますし、一方長文で書けば時間がかかるので、あまりのめり込まない方が得策だと感じます。

本当に書きたいことは、自分のブログに書けばいいんです。2ちゃんねるの掲示板システムだと、1000コメントが書き込まれた時点でそのスレッドは過去ログ行きになりますから、自分の意見も一緒にゴミ箱に入れられたような気分になります。時間に依存するような鮮度が重要な情報だったら気にならないでしょうが、そうでない情報を扱う場合は自分のサイトに書いておかないと、すぐにネットの海に沈んでいきます。

ちなみに、当サイトの閲覧履歴を見ると、案外以前に書いた記事が参照される事も多いので、古い情報が無用だとは限らないとわかります。私にとっての2ちゃんねるは個人の意見を言う場ではなく、基本的には情報収集の用途に限って使用しています。

2.感情の波に呑まれないこと

これは、感受性の強い私には非常に難しいことなんですが、悪意の感情に当てられると一時的にではありますが、自分も悪意が芽生えるのを感じます。掲示板に長居したくないのは、そういう理由もあるんです。ちょっとでも不純な感情が生じるということは、自分の正義や誠がいまだ未熟という事なのか、はたまた悪意が芽生えたとしても、それを自らの意思で排除できればそれで十分なのか、現在の自分の程度を量る際に判断に困る部分です。

まとめ

2ちゃんねるに関する考察などを書いてきましたが、全体的に人を選ぶサイトだと思います。情報収集の利便性など良い部分もありますが、どっちかと言うと社会に対しては、悪い影響の方が多いかもしれません。情操教育上、子供は絶対見ない方が良いと思います。

いずれにしろ、一日何時間も板に張り付いているような利用方法では、本人にとっても社会にとっても好ましくないことは疑いようがないでしょう。

今回、2ちゃんねる閉鎖騒動がありましたが、実際の所はどうなんでしょうか。サーバーの運営費が安定して捻出できていないのは確かなようですので、ある日突然ネットから消えてしまうなんてこともあるかもしれません。ひろゆき氏の「こうしてささやかに終わり、時代は変わっていくんですなぁ」という言葉も意味深です。本当に閉鎖されたら、まとめ系サイトの一部は大打撃を受けそうですね。個人的にはサービスがこれからも続いて欲しいと思います。

おわり

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