次に、人が人生において本然的に求めているものは何なのか考えてみたいと思います。

それは「幸福」と言えるかもしれません。ただ、幸福という意味は漠然としていて今一わかりづらいので、もう少し具体的にしたいと思います。

例えば、釈迦は「生老病死」という四苦から解放されるために、自己を磨き高めた結果、悟る所があり仏教を興しました。生きること、老いること、病気をすること、死ぬことが全て苦痛となると、人はそれらに恐怖を感じて不安になります。現実的にこれらの根源的苦痛から逃れることはできませんので、心を修養して恐怖や不安を克服するしか幸福に至る道はありません。

そう考えると、幸福とは人生の苦痛を克服することを言い、それは結果として「安息」に至ること(安心立命)に他なりません。つまるところ、哲学や宗教などは、この『安心立命』を実現するために存在します。他に何か理由があるでしょうか?

外部に依存した安息

普通は人生の安息を得るために、目に見えて触れるお金を稼いだり、良い職業に就くことを求めるでしょう。お金より大事なものがあると誰かが言っても、信じられない人がいても当然のことで、大昔から普遍に存在する矛盾と葛藤です。

ただし、外部に安息を依存する以上、外の環境によって自分の幸福度が大きく変わるという事ですので、非常に不安定になります。それに、ビジネスの場合、自らの本心と異なる行動を取らざるを得ないことが多々あります。そこらへんの折り合いをどうやってつけるのか?という問題もあります。

自己の内面に依る安息

一方、目には見えませんしお腹も膨れませんが、自己の内面に安心立命を体得すれば、全ては本人次第です。お金や地位と異なり、自分が自らの心を手放さない限り、他人の自由になることはありません。でも、「言うは易し行うは難し」で、どうしても周囲の毀誉褒貶などの『世間知』に振り回されてしまいます。

己を知ること(自得)

そうならないためには、まず自分の本性、つまり心の奥底で何を求めているのか、何を天から期待されているのかを知らなければなりません。これを『知命』と言います。知命とは、「(天)命を知る」という意味と、「命(いのち)を知る」という両方の意味があります。

天命を知ると言っても大げさに考える必要はなく、単に「己を知ること(知己・自得)」が大事だという事です。夏目漱石の「則天去私」や、西郷隆盛の「敬天愛人」の「天」と同じ意味で使っています。いかなる天命があろうと、決断するのは自分自身です。

万物は皆、ゆえあって自然(天・無限)から有の存在として生まれてきますので、皆平等(万物斉道)です。根源が同じであり、天地万物一体である以上、それぞれの命に価値があるかないかなどの区別は、本来この世に存在しません。

己を知るために必要なことは、「学問」と「自省」であり、学問と自省を繰り返して自分を高め続けることで、克己し自得(知命)します。もっと詳しく言えば、学問とは『知考行省 (知識・思考・実行・省察)』の四字で一体とも言えます。

注釈:
学問で知識を増やし(陽)、自省で自らを省みると共に煩雑な知識を省く(陰)。これで陰陽のバランスが取れるようになります。学問のみでは、知識という名の枝が繁茂しすぎて風通しが悪くなり、木そのものが病気になったりするので良くありません。現代社会の心の病の根源もここにあります。学ぶべき知識ばかり増えて知の縦割りが進むと、職業の専門化と共に人の心もバラバラになっていきます。「神は死んだ」という言葉で有名なニーチェの言う「末人」とは、知性はあっても感情を失ってしまった人のことを指すんじゃないでしょうか。このままいけば、末人が世に溢れるのも時間の問題のような気がします。また、そのような世の中を仏教では「末法の世」と呼ぶんだと思います。

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