2013年に陽明学を初めとして様々な勉強を行い、そこで大きく得るものがありました。それらを「学問の求道者用」ページや考察系のページで紹介してきたつもりです。しかし、私の信念は未だ未熟であり、完成されていないとずっと感じていました。

その証拠に、2014年5月以前に書かれた記事を読まれた方であれば、所々で弱々しい文言が含まれているのを発見したはずです。自分自身を「偽物」と形容したこともあります。心の中にまだ迷っている部分があり、また他者からよく思われたり、高く評価されたくて演じていた部分がどこかにあったからです。

ですから、2014年5月に再び、農作業の時以外はできるだけ引きこもって内省に勤しむ事にしました。正直に書くと、大まかに分けて私の迷いや葛藤は次の4つです。

1.自己の内面から湧いてくる力が安定しない
2.激しい感情(内在する暴力的な自分)がコントロールできない
3.郷愿(世間に迎合的ということ)の気味が残っていた
4.学問を通して知識が増えると同時に、一部の傲慢な人達を軽蔑し見下すようになった

自分の奥底に存在する醜い感情と、いい子ぶる外見の間に矛盾が生まれ、偽善者と偽悪者の狭間でしばらく思い悩みました。現在(2014年9月)はこれらの葛藤を完全に克服しています。今に至ってつくづく思うのは、たとえいくら一生懸命学んでも、物事の全体的理解が進み始めるのは随分後のことだという事です。それも階段のように一歩一歩成長を実感できるというものではなく、指数関数的に最初はほんの少しづつ、そして徐々にはっきりと成長を自覚できます。

したがって、世間の人が己を高める心の修養に重きを置かない理由も、手っ取り早く就職や金を稼ぐための目的で勉強に専念した方が、生きるためにも、そして自分の努力に対する見返りが目に見えて分かりやすいという点からも当然であり、十分に理解できます。

しかし、勉強さえすれば点数や成果が得られる学問ばかりしていると、努力しても成果が見えにくい学問の重要性を軽視するようになってしまうのが問題だと思います。そうやって安易な風潮が生まれ、どんどん学問の真意が失われていきます。

3年学んだらすぐ塾を卒業していく、就職目的の弟子達に孔子が嘆いたように、2000年前から表面上の損得勘定に支配されやすい傾向が続いているという現実を、人々が自覚する必要があります。しかしそのためには、勇気と誠実さが必要不可欠です。

現実問題として、確固とした信念を構築する時間的余裕が個人には与えられていない、いうことが挙げられます。子供の頃には価値があるのかないのかわからないような受験勉強を強いられ、大人になれば今度は社会に奉仕するために、そして自分が生き延びるために継続的で休みない労働を強いられます。これでは己を省みて、固定観念を破壊し、新たな価値を創造するだけの大きな成長を遂げる暇がありません。

皮肉な事に、西郷隆盛が大きく精神的に成長したのは、離島の牢獄に幽閉されていた時です。書物を読んだり自省するための時間をまとめて確保できたという事実が、後に彼を「敬天愛人」という成熟した思想にまで発展させたと私は考えます。

(悪い意味で)大衆を主役とした現代の教育制度や社会の構造を私が疑問視しているのも、個人の行動上の自由の無さにあるわけで、「昔から個人に自由なんてないだろ」という意見もあるでしょうが、今も昔もそのように本質的な部分が最初から歪んでいるが故に、後になるほど誤りが段々と大きくなってしまっていると感じています。

もし、真理を求道される高い(そして同時に深い)志を持った方がいらっしゃいましたら、最後まで決して諦めてはなりません。学んでいく過程で自覚できない精神の土台が少しづつ形作られていたとしても、自分の城を完成させる前に諦めてしまっては、全てが無駄になってしまうからです。途中で諦めるくらいならば、最初から真理の求道などしない方が良いと思います。

また、いくら高尚な思想を持っていたとしても、単なる口達者な評論家ではまるで、門構えだけ荘厳で貧相な屋敷に住んでいる主人、またはその主人に雇われた門番と異なりません。せっかく立派な城を自分で建築したのであれば、その屋敷の完全な支配者となってこそ意味があると思います。

偽善や欺瞞が道徳として正当化される社会では、ニーチェの指摘するように臆病で小さい人間が増え、本物よりも本物に似せた偽物(俳優)が好まれるようになるため、正義の概念が形骸化していき、さらにはドンキホーテや三島由紀夫のように真面目に正義を主張する人間が滑稽に見え、嘲笑の対象になっていきます。

若者の間で一時期流行った「中二病」という言葉が誕生したのも、出る杭を打つような人間の低俗化を象徴する出来事だと私は見ており、多感で夢見がちな若者を精神的に萎縮させたという点で、この言葉を発明した人(多分大人でしょう)は罪深いと思います。

多くの人が己を高める勉強や努力を無視して、就職や金儲けに有利な技能や学歴習得に勤しむのも、そうせざるを得ない社会構造になっているわけで、それは致し方ありません。しかし、己に打ち克ち、おかしい社会と真正面から対峙する勇気ある人達も、ある程度は世に必要だと思います。そうしないと、枠に収まったお利口さんばかりが支配する世界となり(というか現にそうなりつつありますが)、ますますこの現状を覆すのが難しくなっていくでしょう。

でも、現在の私はそのような社会の流れを特段憂いているわけではありません。それが何だと言うんですか。世の中がどうだろうと、私は自分の志(本性)を貫くだけです。平和な世を笑って享受するように、混乱した世界も笑い飛ばして生きるだけです。

おわり